板橋仲宿~中山道、江戸時代の宿場町と遊郭の名残を楽しむ
自転車通勤のもう一つの魅力

自転車で通勤をしていると、陸続きなためなのか、自宅から仕事場までの地域がひとつにつながっている感じがするものです。
やがてそれは自分の住んでいる町内を走っているかのような気分にさせてくれます。
そしてルート上に存在する、それぞれの地域について「もっと知りたい」、という欲求が湧いてきます。
実はこれが自転車通勤のもうひとつの魅力でもあります。
⇒「ロードバイク通勤のすすめ」はこちら
板橋仲宿とは

ようになってしまった現在のたたずまいも気に入っている。
で、今日は板橋仲宿を紹介します。
今から10年以上前、初めて通勤でこの通り、旧中山道を走った時、なんだか日光や(廃れる前の)鬼怒川や伊香保など温泉街の雰囲気がしました。


カオスになっているところがいかにも昭和くさい。


温泉なんかないのに。

板橋仲宿は、江戸時代から栄えてきた歴史的な宿場町で、その地域に住む多くの人々に愛されています。
愛されている、というのは「栄えている」という意味です。
そう、郊外型大型ショッピングセンターが増えた昨今、日本全国の商店街で「閉店ガラガラ」状態のところが多い中、板橋仲宿は数少ない「生きている」商店街なのです。

ラーメン屋さんとインドカレー屋さんが並ぶ。いずれも繁盛している。
中山道の板橋宿不動通り商店街(入口にガストとりそな銀行がある)から板橋本町の環七トンネル(歩行者用)までの全長約1.6kmに渡る商店街のうち、旧中山道と王子新道との交差点から石神井川に架かる「板橋」という橋(板橋区の由来となったという説がある)までの間が仲宿になります。

板橋不動通り商店街にはラッピーというマスコットがいる。
画面左上に座っているのがそれだ。
ちなみに、この「板橋」が初めて架かったのは今から約800年前の源頼朝の時代とのこと。
その「板橋」から先は板橋本町で、かつては上宿と呼ばれていました。

向かって左側に見える帝京病院をあさやホテルに
見立てているのだ。この写真の前方が仲宿、後ろが上淑(板橋本町)だ。
板橋宿のなりたち
1602年(慶長7年)、徳川家康により中山道が整備され、そこに「板橋宿」ができました。
お江戸日本橋を出発して一番最初に出てくる宿場町でした。
板橋宿は上宿(現板橋本町)、仲宿(今も仲宿)、平尾宿(現在のJR板橋駅付近)に分かれて発展しました。
中山道(現在の国道17号線)は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道であり、旅人や商人たちが行き交う交通の要所でした。
宿場町としての仲宿は、旅人たちの宿泊や物資の補給を行う場として栄えましたが、明治17(1884)年の大火で大半が焼失し、鉄道開通の影響で徐々に宿場町として寂れ始め、代わりに遊郭として栄えるようになったとのことです。
現在の仲宿は遊郭もなくなってしまい、当時を残す現役の建物はなくなってしまいましたが、史跡などを注意深く見ると、宿場町だったころの面影がうっすらと見えてきます。
歴史的な建造物と文化財
板橋仲宿には、多くの歴史的な建造物や文化財が残されています。
仲宿本陣跡

飯田家(板橋宿中宿の名主・脇本陣家であった)の屋敷跡です。
幕末に14代将軍家茂へお嫁に行く皇女和宮さまがご宿泊し、明治初年に大宮氷川神社に参拝される明治天皇が休憩された場所とのことです。

小さなデパートのような店舗だ。
いまはスーパー・ライフが建っています。そのライフの隅の方(日本橋側)にひっそりと小さな史跡を示す標識が建っています。
遊女の墓

最終回で南方先生(大沢たかおさん)が調べ物を
していた図書館はここから割と近いところにある
「王子図書館」なのであった。
板橋遊郭で働いていた遊女のために建てられたお墓とのことです。
ライフ(仲宿本陣跡)の正面入り口を帝京病院の方角に入っていった道の左側にある「文殊院」というお寺さんの墓地の中にその「遊女の墓」というのがあります。
「薄幸の美女の献身を悼み大盛川楼主建之 正面家族側面遊女」と書かれた石碑があります。
平尾宿にあった「大盛川」という遊郭の楼主(経営者)が建て、正面が大盛川の家族、その脇が遊女(従業員)の墓です、という意味のようです。
冷静に考えてみると、代表取締役社長がその家族と、よく働いてくれた従業員(遊女)を供養するために建てたもののようです。
遊女のことを「薄幸の美女」と呼んでいるあたり、大盛川の経営者はなんとなくロマンチックな人であったんではないかといったような印象を受けました。
TBSのドラマ「仁」で遊女が梅毒に罹って死んでいくシーンがありましたが、そんな感じのものを想像していましたが意外と現実的なものでした。
板五米店

思いつつ毎日その前を通り過ぎていたのであった。
これは宿場町としての仲宿の名残ではありませんが第一次世界大戦が始まった1914年に建った米屋商家です。
1923年の関東大震災や1939年から1945年の太平洋戦争を耐え抜いた建物です。
(注)1923年の大正関東大震災の板橋区の震度は「5+(震度5強)」だったと推定されています。東日本大震災の時と同じくらいです。とはいえ、板五米店が倒れなかったことは確かです。
板橋区の有形文化財となっています。
それによれば、板五米店は板橋仲宿を挙げての再生プロジェクトで存続しているのだそう。
愛されているんですね。
新撰組・近藤勇のお墓

いまも絶え間なく花が供えられているのはすごいことだ。
同じ板橋宿の平尾宿(現在のJR板橋駅付近)に新撰組隊長・近藤勇が処刑された場所とお墓があります。
新撰組の局長・近藤勇(こんどういさみ)は戊辰戦争では旧幕府軍について戦っていましたが、1868(慶長4)年4月に千葉県の流山で新政府軍に確保されてしまいました。
その後新政府軍の本部が置かれていた板橋宿の本陣に連行され、平尾宿(JR埼京線板橋駅付近)に監禁されましたが同年の4月25日に馬捨場(馬の墓場)で処刑されたということです。

首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されました。
場所はJR埼京線「板橋」駅の東口広場のすぐ目の前です。
3つあると言われている近藤勇の墓の一つがこの滝野川にあるものだそうです。

像にしてほしかったが時代がそうさせなかったのか。

(新撰組副局長)の墓標。ここにも花が供えられていた。
他にも見どころはありそうだが・・・
板橋不動通り商店街や旧平尾宿などもっと見どころがありますが、それらはまた別の記事で書きます。

「夜のカフェテラス」の絵に非常に似た
景色である。もちろんここはフランスのアルル
ではなく板橋仲宿。